高田義裕の人生論

今日の箴言

私が言いたいのは、たとえ、偽りが成立していたとしても、また、その存在する時間の長さの大小に関係無く、ただ偽りが永久に続く事は決して無いと言う事なのである。

2.ノアの世代に、洪水によって、神から直接に裁かれ、滅ぼされた人々は決して同世代の人々の目から見ても、特別、悪に進んでいた人達だったからという理由に拠るものでは無く、それはあくまでも、神の見地から見た場合での判断に拠るものであったのであって、むしろ、大多数の人は、ごく普通の世の良識者、常識者であったに違いないのである。よって、今日、最後の審判であるハルマゲドン体制において、神からの裁きが近づいている今、滅ぼされる事になっている大多数の人々は、我々が見ている通り、特別、悪に進んでいるわけでは無く、むしろ、ごく普通の人達であるのである。また、その様な意味において、単に人が死ぬという事と人が滅びるという事とは、全くニュアンスが違ってくるものである。要するに、私達は、自分達がいずれ死ぬ事を知っているし、いずれはほうっておいても死に至るのであるから、たとえ、いつ我々が神によって滅ぼされても、文句の言いようが無いのである。

3.病気である者に対して、新たな定義付けとして、[彼は病に犯されている]とは言わずに、[彼は病気に対して秀でている]ということ。

4.神に従う事は義であるが、義である事が神に従っているとは、必ずしも言えないこと。

5.神への信仰が利益目的の手段になってしまったらもうおしまいなのである。

6.[これしか無い]という事が、[その人にとってすべてを賄う]ものとして結び合わされる時、それは、初めて、カルトや洗脳やマインドコントロールというものを排除するものとなる。

7.神に祈り求めたのち、確かにそれについて祈ったのなら、なぜ、あなたはなおもそれについて考えようとするのですか。祈り求めたならば、必ずそれは与えられるのです。よって祈った人は、それはもう既に果たされたのだ、という信仰を持ちなさい。

8.理知的、人格的存在は、とことん素晴らしい存在に成るか、それとも、とことんケダモノ以下にまで堕ちるかという2極的な可能性というリスクを常に持っている。そして、そのリスクを背負ったのが、神だったのである。神は人が御自身の様に立派な存在に成る事を期待して人間を造ったのである。これこそ、神にとっては、大きな賭けであった。しかし、実際には、その期待は裏切られ、人は神に反逆して罪を犯してしまったのである。