高田義裕の人生論

今日の箴言

何かの事で、他の人を責めるのでは無く、また、自分をも責めるのでは無く、ただ、すべての者を生かし、育ててくださっている神エホバに感謝し、その方だけを畏れ、その方に常に祈っていなさい。

2.自分が謙遜である事を誇るのでは決して無く、謙遜そのものでなければ、意味が無いのである。

3.あなた方に人間関係の黄金律を述べよう。それは、あなたの事を他の人が気づかってくれ、あなた自身は他の人事を気づかう様にすること、この循環がスムーズに機能して初めて、人間関係は、過不足なく機能し始めるのである。

4.およそこの世の中に、ずっと義と権威を維持出来る存在など1つも無いのである。この世の中に沢山出てくるあらゆる義や、権威や、立派な事柄は皆、その途上で朽ち果て、廃れて、近く消えていく宿命にあるのである。ただ、永久に亘って、義と力と権威とを維持出来るのは、エホバ神なる全能者だけである。

5.物事に対処する時は、常に抽象的にでは無く、あくまで、具体的なものでなければならないこと。よって、方法論的な意味での抽象論は現実世界では全く通用しないこと。すなわち、もともと宗教などと言う1つの分野に分類される様な抽象的存在や、その中の宗教教理と呼ばれる様な抽象観念は、初めから存在せず、それらは皆、架空の物であり、人間が必要によって造り出したものである。しかし、真理そのものは、宗教などという枠組みに入るとか、入らないとかの問題では無く、それは、あくまでも、1つの事実なのであり、実際の現実であるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

およそ、この世の中に昨日と同じ形でとどまっているものなど1つも無く、どれも皆、刻々と変化しているのであり、徐々に衰えて行っているのである。しかし、その同様の意味において、神エホバだけは、定めのない昔から今までも、かつこれからも、同じ方であり、変わっていない方であり、永久にその栄光ある神の立場を保っておられる方なのである。

2.真の勇気とは、咄嗟(瞬間)の度胸では無く、自分の信念を忍耐強く、その最後まで守り通す継続的意志の事であること。

高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中(人間)の知恵は、今、生きていけるか、生きていけないか、に関するものだけであるが、神の知恵はずっと生きて行く資格があるか、それとも、ずっと生きて行く資格が無いかに関するものであること。よって結論として、生きていける能力を十分に持っている者であっても、神から見て、ずっと生きて行く資格が無い者は、いずれ必ず死ぬ。しかし、生きて行く能力が無い者であっても、神から見て、ずっと生きて行く資格がある者は、必ず生き続ける。よって、人間の見地よりも、神の見地の方がより勝っているのである。世の中の人々は、これを、昔から運がある人、運が無い人として区別して来たのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

私達は、自分達の身の上に生じる境遇を嘆いたり、他の人々の立場の不幸を見て、同情したりする事よりもまず、先に神の立場を考慮し、それらの事が起こる遥かに前から、神が神と言う存在でありながら、人間達から全く不敬な扱いを受けている事こそを嘆くべきなのである。

2.何事も人間の都合では無く、常に神の都合が優先されること。

3.人には、皆悪い人はいないが、良い人もまたいないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人に話すときは、なんでも、きちんと自分が自信を持てるまでよく調べたものを初めて話す様にすべきこと。要するに、無責任な発言は決してしないこと。結局、それは後で自分に跳ね返って来るからである。

2.私達はいずれは予告無しに、死ぬ立場にあるのだから、たとえ、ある時、予告無しに神によって滅ぼされたとしても、不平や反論や驚きを言える立場には無いという事である。

高田義裕の人生論

今日の箴言

愛ある精神でもって、相手の事を大目に見てあげるなら、また相手もあなたの事を大目に見てくれるのである。

2.唯一真の神を知らない人々の、唯一の拠り所であり、彼らにとっての神は、お金であること。その考え方が大多数であり、マジョリティであること。しかし、この世の中では、必ずしも大多数が正しいとは言えず、少数派、すなわち、マイノリティーが正しい時もあること。すなわち結局は、数や影響力が少なかろうと、正しい事柄が勝利し、生き残ること。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

今日の現代社会において、宗教と聞くと、皆が不愉快な気持ちになり、避けたい気持ちにさせられるのは、古今東西、遠い過去から現在に至るまで、真の宗教では無い偽りの宗教が人々や世の中に与えて来た弊害や悪しき結果に、人々はもはや、うんざりしているからであり、それが代々、直感的に感覚として本能的に人々のイメージに受け継がれ、教えられ、染み付いてしまっているからである。

2.本当にエロティクな事柄を楽しみたかったら、性的欲求を自制すべきであり、エロティクな事柄ばかりを貪欲に追い求めない事である。それがエロティシズムのエロティシズムたる所以なのである。よって、男女とも、互いの体を奪い合う様な事の無い様にすべきなのである。正当な夫婦間の性交渉による性的興奮と満足は、もともと神が人にお与えになった清いものであり、神が清いと言っておられるものを人が清くないと言ってはならないのである。よって、結婚の床は、汚れの無いものとすべきなのである。