高田義裕の人生論

今日の箴言

経験的に言って、ちょっとした良心、すなわち、安っぽい中途半端な親切心や良心は何の親切心や良心も無いのと同然であり、何の影響力も無いこと。むしろ、それを行った事によって自分自身が痛い目を見る場合が多いのである。例えば、いつも水に溺れて死ぬのは中途半端に泳げる人ばかりだからである。すなわち、いつも助かるのは、自分は泳げないとはっきり自覚している人であり、もしくは、最後まで徹底して泳ぎ切る者だけだからである。よって、何をするにも結局は徹底して行わなければならないものであり、何事もそれをするのか、しないのかのどちらかに決定すべきなのである。はっきり出来ると思えるならば、最後まで徹底的にやれば良いし、自分には自信が無いと思うのならば、全くしない方が良いのである。いつでも中途半端にする人がとてつも無く大きな失敗をしてしまうのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

現代の大多数の人々は、本来人間にとって赤子の事柄の様に容易で分かりやすい、また本来人間にとって何ものにも先にある事柄、もしくは、疑う事よりも先にある当然の行い、すなわち、神に信仰を持ち、神に従うという、ごく初歩的な基本すら出来てい無いし、身に付いていず、また自らその必要性も全く感じてい無いという事なのである。

2.この世の中にあるすべてのものは、結局、手入れを続けて、管理する事を維持し続けていかなければならないものばかりなのであり、もしそうしなければ、それらは存在し続けていく事は出来無いのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人は、他の人とどちらがより優れているかを競うのでは決して無く、ただ自分だけに関して歓喜の理由を持てる様に成れる為に努力していけば良いのである。これが本来の人の本分である。

2.この世の中の出来事で、このうえも無く素晴らしい事があったり、はたまた、このうえも無く最悪の、悲惨で、解決の見い出せない事があったりするのは、その背後に神業がすべてを網羅しているからなのである。もし、すべての事柄が、単なる私達人間の業の所産であると仮定するなら、すべての事柄はこんなにも素晴らしくは無かったであろうし、かつ、こんなにも悲惨な有様も決して無かったであろうからである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人間にとって最も辛いのは、単なる死では無く、生き地獄の事なのである。この世の中にはどれだけ無数の生き地獄がある事だろう。そして、神エホバこそがそれを最も忌み嫌われる方なのである。

2.ほとんどの人は、誠の神エホバを高める事をせずに、自分自身を高める事にのみ専念し、ただそれだけに終始しているのが現状なのである。

3.ある意味においては、良い事も悪い事も、すなわちすべての事でさえ、神エホバが知る事無くして起こる事は一つも無いという事である。

4.神の造られたものは素晴らしすぎるので、ひとたび、それが狂うと、すべてがとてつもなく悲惨な状態になってしまうというリスクもまた、抱えているのである。そして、人間が神の造られたものを誤用したせいで、この世の中はあらゆる厭うべき悲惨な事柄で満ちているのである。

5.自己満足の病にかかってしまっている者には、一時的には、その本人にとっては非常に辛いが、ショック療法が必要不可欠であること。

6.アダムから生まれながらにして罪を受け継いでいる、その最初から不完全な私達子孫は、どうしても私達自身の力だけでは実現出来ない不可抗力なものが最後まで残るのである。それは老いて死んで行く事であり、自分達の悪い性癖を止められない事柄の事なのである。

7.不義を行わない事が目的なのでは決して無く、神エホバが不義を行われないので、また、私達も不義を行わないという事がその理由なのである。

8.人が老いるという事は、一見、自然的で当然の流れの様に思われるかもしれないが、しかし、実際には、老いるという事は人にとって、何ものにも代えがたい不幸であり、惨めな事でしかないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

本来決して生じる事の無い事柄がこの人類史の初めから生じてしまったのであり、それは神に対する反逆というものなのである。よってその後の世に、どんなに不可思議な事柄がたとえ生じ得たとしても、むしろそれは全く驚くにはあたらないのである。

2.人の活動の領域と比べて、神の活動の領域は、遥かにレベルが高く、そして広いこと。

3.すべて、救う事が出来ないのでは無く、私達に救う能力が無いという事なのであり、また、すべて、救う手立てが無いのでは決して無く、私達は救い方を知る事が出来ないという事なのである。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

祈りは、私達が考えている以上に重要なのであり、威力があるものなのである。なぜなら、もし、自分達の事柄を行って行くのであれば、私達は何処にも祈る理由を見つけられないのである。しかし、実際には、すべての事柄は神に属する事柄なので、私達はそれを実現していく為には、確かに神に祈らなければ何も始まらないのである。実際、クリスチャンにとって、祈りは、クリスチャンと言う名の代替えでさえあるのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

観念的な本質として、真の神をほとんどの人間はいわれなく(理由なく)憎んだということ。要するに、彼らの気持ちには神を憎む、何らかのそれなりの言い分さえある訳では無く、ただ嫌うという事の意味なのである。これはまさに不条理なのである。