高田義裕の人生論

今日の箴言

この世の中を基準として見た、毎日生じている、全く愚かな事柄に拠る悲惨な結果はここで敢えて述べるのでは決して無く、公正さを基準とした観点から見た、これほどまでに悲惨な結果を生み出し、かつ、生み出す可能性を十分に潜在している、これらすべての愚かな事柄を敢えて許された神の忍耐力、愛という偉大さとは、何と人智を超えた途方も無い素晴らしいものなのであろうか。逆説的ではあるが、人間の愚かさが満ち溢れる時、同時に神の偉大さがそれ以上に満ち溢れるのである。そして、神から見て、神の公正さと義が完徹される程に、愚かな事柄が完徹された時、この世の中の全体を成している邪悪な諸体制は突然に、すべて終わりを迎え、すべてのものは神の手によって滅ぼされるのである。アーメン。

高田義裕の人生論

今日の箴言

社会全体の雰囲気が、互いに批評的になって、批判的精神が広まっていくようになり、互いが互いの足を引っ張り合うようになる時、その互い全体が、徐々に無自覚の内に衰退していくこと。すべての初まりは、ただ、互いにまず妥協し合い、まず許し合い、まず大目に見合い、進んで協力し合い、純粋に愛し合っていく事によってのみ、生まれていくものなのである。要するにお互いがまず率先して血を流す、すなわち、負担を進んで荷わなければ、何も生まれ無いし、何も始まらないし、何も良くなっていかないのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

現代風に述べるなら、人間の抱く誇りとは、その当人にとって全く有り難く無い、精神的なガン細胞のようなものであること。

2.世の中には、高尚な事柄もあれば、低俗な事柄もあるものなのである。この様に、心に幅のあるバランスの取れた理解と認識こそ、人にとっての大人の精神なのである。ただ、どちらかに意識が集中し、偏り過ぎる事によって、全体の精神的バランスが崩れ、不健康な状態に陥ってしまいがちなのが人間である。すなわち、綺麗すぎる水には魚も棲まない様に、高潔過ぎても駄目であるし、低俗過ぎても駄目なのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

人類が長い苦闘の末、ようやく編み出したと思われている、人の生活を安定させ、人を幸福にする上で、現在最も有効なシステムであり、体制である、と誰もが信じて疑わない社会的構造である、[民主主義]というものは、実際には無秩序の温床でしかないこと。本当の所は、これもまた、矛盾するくらい意表を突くものであるが、君主制が結局は人にとって一番良い支配体制であること。ただ、その君主制を人が行った場合にのみ、そのシステムを十分に維持させて行ける能力を、人はもともと持っていない為、それは恐怖政治となり、密告政治となり、腐敗政治化し、君主制は堕落して行ったのである。人類はそのような痛くて癒しようの無い酷い結果を現に歴史上で経験して来た為、君主制は悪の権現の様なイメージを抱いてしまっているのである。しかし、民主主義の政治の結果はどうなってしまったか。それは我々が現在まさに経験している事柄なのでは無いだろうか。それは、舵取りのいない遭難船の様なものであり、価値基準の崩壊した不安で不穏な精神状態であり、富裕層と貧困層の格差の拡大であり、将来に対する何の目標も無い、ただ漠然とした虚無感だけが厳然としてあるだけである。これからは、人類が無数の交配を繰り返してきた結果により、人種が白人と黒人に別れてしまった様に、あくまでも、政治の主導権は今でも白人が握っており、大多数を占める黒人は今までも苦しい奴隷状態が続いている様に、貧困層と富裕層の格差は、これからますます極限にまで開いて行くであろう。所詮、民主主義とは、100%の果汁のジュースを無限に水を足して薄めた様な、味の無い、誰も飲む気のしない、最終的には、捨てられる運命にあるのである。その最終部分に今、我々は立っているという事である。

 

高田義裕の人生論

今日の箴言

不審な人物に付け入れられて困っているという人に言える事は、その本人から出ているオーラが、本人が自覚しないままに、その心にスキがあるのであり、それを敏感に察知した不審者の相手がそれにつけ込んでくるのであり、不審な人物に付け入れられる原因は、実は本人にあるのである。

2.この世の人類の長い歴史を端的に言い表すなら、それは肉欲の満足を満たす為の営みというものに集約されてしまうのであり、他の相手とどれだけ性関係を持てるかを互いに競うあうだけの成果しか生んで来なかったのである。ただ1つの救いは、部分的に個人的にはそうでは無い人々もいたという事である。したがって、神は人智を超えた忍耐力によってその様な愚かな人間の営みを6000年間も許されて来たのである。

3.自由には必ず、責任が伴うものなのである。よって一見、それら互いは矛盾している様で、実際には、同一のものの表裏の関係にあるのであり、その最初から互いは両立しているのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

およそこの世の中に、これさえやっておけば、後は全部、事足りるという万能なものや、自信に満ち溢れるほどの確信もまた、存在しないのである。もし、その様に思えるものがあり、また、もし今、そう思っているとするなら、その人は自分の思いを欺いているのであり、その思いを全く修正すべきである。人生とは、その最初から如何なる偶像崇拝からの束縛から全く解き放たれた自由なものである。要するに、人の物事に対処する仕方と態度とは、怠惰なものであってはならないのであり、すなわち、それは常に、慎重であり、真面目であり、控えめであり、慎ましく、そして謙遜であり、あくまでも、具体的であり、常に1つ1つ、コツコツと1対1対応で対処しなければならないものであり、1つの独立したものに対して、常に1つの独立した対処が必要なのである。よって、ある事柄が成し遂げられた時は、それはもうそこまでで終わりであり、次の事は次の事として、また最初から新しくやり直しなのである。

高田義裕の人生論

今日の箴言

すべて直接に神から与えられたものだけを人は摂取し、それだけを用い、それだけを活用する様にすべきこと。例えば、神が直接人間に与えられたものは、食べ物に関して言えば、多くの木々から産出する柿の木や、マンゴーやリンゴなどのあらゆる木の実または、果実なのであり、それらは皆、人間の健康に益するものばかりであるからである。しかし、神から直接与えられていない、すなわち、間に人工的作為が介入したモノ、すなわち、薬品や様々な甘味を加えられたジュースなどの製品は、人間の健康を維持する目的で作られたものの、それには必ず体に良くない毒性を蓄積させる副作用を有しているからである。よって、人間が本当に健康を維持する為には、神から人間に直接与えられた物、すなわち、自然界に昔からある、神からの創造物である、木の実や果物や魚介類などの自然の物を摂取し続けていかなければならないのである。

2.人は、1人のままでいて、あまり人と接する事が無く、人間関係が希薄になると、だんだんとわがままで傲慢になる傾向があるのである。よって人は、常に人と接して自分の心と感情を新鮮に維持する必要があるのである。なぜなら、すべての説明のつかない凶悪犯罪の犯人の共通する生活環境は孤独から来ているからである。