高田義裕の人生論

今日の箴言

聖書に拠れば、神ご自身が、言葉を発しただけで、それはその通りになったのであると書いてある。これはすべてのものが神ご自身のものだからである。。これはまるで、人が、自分だけが書いた、自分にしかわからない筆跡であり、他の人には、全くわからないが、本人には全く理解できることであり、もし、他の人がわからないように、付け足したとしても、余計に本人には分かってしまうということなのである。また、その人の書斎で、その本人だけの都合の良さで、本なり、ペンなり、机などが置かれている状況で、他の人から見たら、都合が良く無かったり、整理されていないと思って、気付かれないように何かを、ほんの少し動かしたとしても、本人には、全く気付かれてしまうことと似ているということである。要するに、神は、言葉だけで、すべてを創造することができるけれども、また、既に行ったことに対して、何らかの変更が必要になった時には、言葉を発するだけで、変更できるということである。それに対して、人は、何かをしたいと思ったら、その言葉を言うことだけでなるということに相当することは、そうする為の計画、準備、期間を用意しなければならないということであり、また、変更しなければならない時には、変更した時に生じる余分な手間や、予想していなかった副次的作用をも、調査して、それが起こらないように何かを補充したり、何かを削除したりしなければならないということである。これは、どうしてそうなるのかと言えば、人がすることやしたいことは、その初めから、人のものではない、もしくは、自分達の身の内部に初めから含まれていないからなのである。すなわち、人のすることは、すべて、人の外部に存在しているものであり、外部に存在しているということは、それを行うことに、制限や条件と言ったものが必ず付随するということなのである。もし、人にとって、すべてのものが自分のものであったなら、そこには、それを行う制限とか、限度とかルールなどは存在せず、自分の勝手気ままに動かし、作ることができるはずであり、まさに、自分が、神の様になって、人が言葉を発しただけで、それはその通りになるのである。よって、結論として、この世界は、人にとって、外的世界であり、すべては、神ご自身の所有物であるということなのである。