高田義裕の人生論

今日の箴言

宗教論

人間は倫理的動物である。人間は常に、自分の行っている事は正しいと信じているし、自分を常に、正しい状態に保ちたいという良心を持っているからである。もし、自分が悪い事をしている人と世間に思われたら、あなたはそれを嫌だと思うのではないだろうか。逆に、自分は世間から、良い人と評価されたなら、誰もがそれを喜ぶのではないだろうか。人間はこのように、人から良く見られたいという欲求を本能的に持っている。すなわち、人間は、自尊心が満たされないと、平常心が失われ、病気になったり、自分の悪いところを悲観し、自殺したり、自分の悪いことを認められず、それから逃避し、それを正当化して、それが元で、犯罪を犯したりしてしまうのである。だから人間は、その歴史の始まりから、人とはどんな存在なのか、また、人はどう生きるべきか、を問い続けてきたし、現在も問い続けているのである。これは人が正しさとは何かを追い求める性向を持っていることを示す証拠である。それでは、正しいこととは何かを尋ね求めることは、果たして正しいことなのであろうか。実は、それが最近、疑わしいことが分かって来たのである。この世には、幾万もの宗教団体があるが、それらすべてに共通して言えることは、皆、自分の宗教が唯一正しいと思っている点である。彼らの信仰心の原動力は、自分の行っている宗教活動は、唯一正しいと信じていることである。古今東西、戦争の諸原因は、宗教間の争いであり、これは、自分が正しいと信じている宗教を世界にまで広げようとする欲望から来ているのであり、また、互いの正しさの価値基準の相違による軋轢や摩擦から争いが生じてきたのである。この度重なる宗教間の争いにより、人々は疲弊し、苦しめられ、殺されてきたという長い歴史がある。そのため、人々は宗教というものに、ほとほと嫌気がさし、ロシアの政治指導者が宗教とはアヘンである、と言わしめた程、宗教は隆盛を誇ってきたのである。その歴史の痛い反省から、現代の人々は宗教と聞くと皆、警戒心を示し、怪しげなものとして、そこから立ち去ろうとするのである。現代人の宗教嫌いも、その暗黒の歴史から端を発していると言っても過言ではないのである。しかし、個人的には、前半でも述べた様に、人は皆、自分は正しいという自尊心を持っていると述べた。それで、人は正しさを追い求め、できるだけ正しくあろうと努めるのであるが、ここに、一つの落とし穴がある。すなわち、人が正しくなればなる程、それに比例して、悪いことを行いたいという欲求も強くなるということである。例えれば、性的快楽を悪いことと見なして、自分を戒め、それを避けている人の方が、性的快楽を受け入れている者よりも、性的快楽を求める欲求が強くなるのである。これは、正しさを追い求めれば追い求める程、悪いことを行いたいという気持ちも強くなることと同様である。これはなんと、皮肉なことであろうか。よって、正しくなろうとすることはどうやら、決して正しいことでは無いことが分かって来たのである。人は自分を清い状態に保てば保つ程、自分はこれだけ清いのだから、少しは、羽目を外しても良いのでは無いかという心理状態になるのである。ここで、ひとたび、私達は、正しさとは何か、という問題の原点に立ったのである。