高田義裕の人生論

今日の箴言

疑問として、人生を真剣に生きていない、要するに、大した苦労もしていない、どちらかと言うと、自分の人生に対してお客さん気分でいる様な、のんきな評論家的人間が、暇つぶしレベルで宗教や神に走るのでは無いか、という事である。

2.人の述べるすべての主張は、神にとっては言い訳、もしくは中傷というレベルのものでしか無いこと。要するに、反論とは互いのレベルが対等である場合にのみ成立する事柄だからである。

3.知識を蓄える者は、苦しみを蓄える者なのである。

4.知識は貯めるものでは無く、常に使うものである。

5.大いなる者は、大いなる者の故に大いに悩むのである。

6.人々の行う罪深い行いに対して、神が抱く気持ちとは、それはしてはダメだ、いけない、という憎悪的な嫉妬心からのものや、憎しみ的な裁き人の感情では決して無く、その様な事を行ったとしても、それは非常に虚しい、という心からの同情的な憐れみの気持ちを彼らに対して抱いておられるという事である。

7.はっきりした事は、自分は所詮、神は単におられるというレベルでしか、神を認めていない人物だったのであり、神に従っているというレベルほど神の存在を認めるまでには到っていなかったという事なのである。

8.欲求や欲望を一切汚れた事と見なす、禁欲主義者達に対して言える事は、たとえ、性欲に関してでさえ、最初に神御自身が、結婚の取り決めを定め、夫婦間の性交渉によって、全地を人で満たすよう人間に命令されたのであり、それは既に清いのであって、神が清いと言われたものを人が清く無いと言ってはならないのである。ただ、人が神に付随する事柄を勝手に持ち出して、人物の都合の良い様に解釈し治す事が、初めて汚れた事なのである。要するに、単なる性的欲情が汚れた事なのでは決して無く、神の事柄を盗むこと、すなわち、自分達で勝手に、それぞれ自分にとって都合のいい神々を形作ること、すなわち、偶像崇拝こそが、神が最大に忌み嫌われるものなのである。