高田義裕の人生論

今日の箴言

日本では、犯罪を犯した人が、社会に再び復帰できる土壌はなかなか育って来ない。一度罪を犯そうものなら、前科者というレッテルを貼られ、一生肩身の狭い思いをして、生きていくことになるのである。このような、柔軟性のない狭量な雰囲気は、やはりどこか異常な感じがする。アメリカはその点、例え、罪を犯しても、それを悔い改めれば、すぐに社会的に復帰し、いつまでも前科者扱いされず、また初めから人生をやり直せるオープンフリーで、健全な社会環境が整っていると私は思うのだが、それは間違っているだろうか。日本でもそのような社会を作ろうとしても、必ず、ある人々はこう言う。そんな簡単に罪が消える社会にすれば、人は簡単に犯罪を犯しても良いと考え、なおさら犯罪が増えるのではないかと危惧するのである。しかし、それは違う。犯罪が起こる原因は、やり直しのきく、おおらかで、寛大な社会からは、むしろ、生まれにくいのである。なぜなら、周りの人達が、犯罪を犯しそうになっている人の個人的事情や、問題や悩みを、それが起こる前に、積極的に解消してあげようと働きかけてくれるし、サポートしてくれるからである。こういう愛のこもった健全な社会からは、犯罪者は、減りはしても、増えることは決してないからである。よって、犯罪が増える社会は、既に、病的で病んでいる社会なのである。これはひとえに、孤独社会、すなわち、人と人とのつながりが極端に少なくなった現代病とも言えるであろう。人々は互いに、相手の事に全く関心が無く、皆、自分の興味事だけに注意が向いていて、他の人の必要性を顧みない。すなわち、利己的で冷たい社会なのである。こうした土壌が、人々を孤独感に追いやり、悩みや不満があっても、それを相談したり、打ち明けたりできる人間が一人もおらず、ただ一人でその問題を抱えて、いずれは心を蝕み、その結果、犯罪を犯して初めて、自分という存在が人々に明らかになった、と思うのが、犯罪者の心理なのである。すなわち、自分の存在感が無くて、自分はまるで、透明人間だと感じている人は、数多く存在するからである。