高田義裕の人生論

今日の箴言

人は禁断の木の実を食べて、神に対して不従順に陥った時に、自分が裸であるという自意識を芽生えさせ、自分の事を必要以上に意識する様になってしまったのと同様に、人は相手の妻や夫もいないのに自分1人だけで性の快感を得ようとして、マスターベーションをする事に目覚め、それを意識して行う事を知ってしまったという事とは、実は全く同類の事柄なのである。それは罪深く人格的存在にとって恥ずべき、汚れた行為なのである。よって、医者の言う、一見もっともらしく聞こえる、マスターベーションは正当なセックスの為の練習、もしくは準備の為のリハーサルと言って、マスターベーションを正当な事として説明しようとするが、実際にはそれは、全くの見当違いであり、あまりにも人々の間でマスターベーションを行う事が一般的になってしまった為、医者の側もそれを病気としてみなす訳にもいかない状態になり、時代の趨勢と共にそれは正当化されていったに過ぎ無いのである。よって、聖書に書かれてある通り、人は健全でより勝った霊の力により、罪深い肉の習慣をむしろ、強制的に殺すくらいの気持ちでそれを止められる様に努力し続けて行くべきなのである。しかし、女性ならまだしも、男性は常に精子というものを出さない限り、どんどん体内に溜まっていくから、何処かでそれを放出しなければ健康に良く無いと主張するマスターベーション正統派の人達に対して言える事は、人間という存在にとって、肉体が私達の主人なのでは無く、私達一人一人の人格である意志と思いこそが体に対しての主人であるという事である。よって、体の欲求に自分が支配されるのでは無く、自分の意志が体を支配して行くべきなのである。よって、自分と体との関係は、互いに絶対的に固定化されたものでは無く、気持ちの持ち方によって体の造りも変化するという相対的関係にあるのである。また、むしろ精子は、実は放出されて初めて、また新たに分泌されるものであり、放出の頻度が多ければ多いほど、精子はたくさん体内で作られるという性質を持っているのであり、むしろ、放出されなければ、どんどん溜まっていくというものでは決して無く、放出されなければ、余分には体内で分泌され無いという仕組みになっているという事であるのである。